現在の久留米大学医療センター駐車場一帯には、国内最大規模のドイツ兵俘虜収容所があり収容生活の中で久留米市民との文化的・人的交流も行いながら、大正9年の閉鎖までこの地で過ごしました。
現在の久留米大学医療センター駐車場一帯には、かつてドイツ兵の俘虜収容所がありました。今から約110年前、第一次世界大戦時のことです。久留米では当初4か所に分散収容していましたが、大正4(1915)年6月、戦争の長期化に伴い、陸軍衛戍病院の臨時病棟を整備、熊本と福岡収容所の俘虜も統合収容しました。こうして国内最大規模となった久留米収容所はピーク時には約1,300名を収容、大正9(1920)年3月に閉鎖されました。
収容所は「ハーグ陸戦条約(当時)」に基づいて運営され、俘虜は人道的に処遇されました。将校には日本政府から階級に応じて給料が支払われており、下士官へも衣食住が支給されました。本国からは義援金が届き、家族からの仕送りもありました。
久留米収容所は、敷地や建物が狭く、設備は貧弱で、俘虜たちはストレスに晒される日々でした。その解消のため、近代スポーツや音楽、演劇、美術工芸品の製作、遠足などの文化活動が盛んに行われました。日本人を対象として、ベートベンの交響曲第9番が国内で初めて久留米で演奏されたことも特記されるでしょう。
俘虜の中には、近代ヨーロッパの進んだ技術や経験を持つ者も数多くいました。大正7(1918)年9月からは、所外労役が開始され、市内の足袋会社を中心に雇用されました。彼らはここでゴムや機械技術を伝授し、ゴム靴や自動車タイヤの開発に携わります。ゴム産業を基幹とする近代久留米の発展は、ドイツ兵俘虜の存在抜きには語ることができないのです。
陸軍衛戍病院が明治30(1897)年に当地に開設されて以来、久留米収容所、久留米陸軍病院、戦後には国立久留米病院、平成6(1994)年7月からは久留米大学医療センターと変遷しました。
第一次世界大戦中、日本がドイツと交戦状態に入ったことを受け、久留米にはドイツ人俘虜を収容するための施設が設けられました。
写真は、木造の収容棟が立ち並ぶ収容所内部の様子を写したもので、煙突の立つ建物や行き交う人々の姿から、当時の収容所が一つの生活空間として機能していたことがうかがえます。久留米の地で、俘虜たちは一定の規律のもと、集団生活を送っていました。
軍服姿の俘虜たちが規則正しく並ぶ様子から、当時の収容所における管理体制や集団行動の一端を読み取ることができます。久留米に収容されたドイツ人俘虜たちは、収容生活の中で労働や文化活動にも従事し、地域や日本社会との間にさまざまな交流を生み出しました。
規則正しく整備された収容棟に囲まれた空間では、スポーツや文化活動、行事などが行われ、俘虜たちは単なる拘束下の生活にとどまらず、文化的な営みを継続していました。これらの活動は、久留米市民との交流を通じて地域社会にも影響を与えました。
俘虜の中には音楽家や高度な演奏技術を持つ者も多く、収容所内では本格的な音楽活動が展開されました。こうした演奏会は、俘虜同士の慰安にとどまらず、久留米市民を招いて開催されることもあり、地域に西洋音楽を伝える貴重な機会となりました。久留米収容所は、文化を通じた国際交流の場でもあったことを物語る一枚です。
第一次世界大戦は、大正3(1914)年7月から大正7(1918)年11月にかけて、連合国と中央同盟国の間で戦われた史上最初の世界規模の戦争です。この戦争は世界の大国を巻き込み、連合国(ロシア、フランス、イギリスによる三国協商側)と中央同盟国(ドイツ、オーストリア・ハンガリーが中心)の二つの陣営に分かれて戦争が行われました。
大戦に参加した軍人は7,000万人以上とされ、総力戦によって死亡率が大幅に上昇し、戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上が死亡、負傷者2,000万人を出しました。
また、戦争の長期化により各地で革命が勃発し、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国という4つの帝国が崩壊しました。
大戦が進むにつれ、両陣営の同盟関係は拡大し、諸国が参戦することになりました。日本もイギリスと日英同盟を結んでいたことから連合国側で、ドイツと密接な関係にあったオスマン帝国は中央同盟国側で参戦しています。第一次世界大戦の参戦国および影響を受けた地域は、現代の国家に換算すると約50か国に及ぶとされています。
もともと久留米に陸軍師団が設置されたのは明治40(1907)年のことでした。久留米は第18師団が設置され、師団司令部と師団諸部隊が配置されました。
大正3(1914)年にヨーロッパで大戦が勃発し、連合国側のイギリスと同盟関係を結んでいた日本は、中央同盟国側のドイツが、極東の拠点としていた中国・チンタオ(青島)要塞を攻撃することとなりました。日本海軍の支援の下、久留米の第18師団を中心に編成された「独立第18師団」を以て、攻略することとなり、大正3(1914)年の8月後半に久留米の駐屯地を離れ、中国・山東半島へ向かいました。
9月には上陸を開始したものの、暴風雨などにより阻まれ、10月末に青島要塞の攻撃を開始し、激戦の末、11月7日に陥落させています。この青島の占領により、4,791名のドイツ人を俘虜とし、4,679名を日本へ後送しています。
大正3(1914)年10月6日、久留米俘虜収容所が設置され、3日後の10月9日に久留米市に最初の俘虜が到着しました。収容所は当初、久留米市京町の梅林寺と日吉町の大谷派久留米教務所に設置されましたが、その後、俘虜の数が増大し、篠山町香霞園と上津荒木村高良台演習場廠舎にも追加設置されました。
さらに、欧州での戦争が長期化することが明らかとなり、俘虜の抑留も長期化することが判明しました。警備の問題もあり、民間地の借り上げ利用も困難になりつつあったことから、分散した収容所を統合することになりました。
その結果、国分村にあった陸軍衛戍(えいじゅ)病院(現在の久留米大学医療センターの敷地一帯)の新病舎跡を利用した収容所が大正4(1915)年6月8日に開設されました。
この収容所は久留米市内に分散して設置されていた収容所のほか、熊本収容所の全員、さらには福岡収容所の一部の俘虜も加わり、最大1319名を収容した全国で最大の収容所となりました。
国分村の収容所は31,000㎡あり、周囲は高さ2mの板塀で覆われていたといいます。その中に、56名の将校のための3棟のバラックと15棟の下士卒用のバラックが建てられました。このほかにも管理用の諸施設が建てられましたが、特に下士卒用の建物は狭隘で良好な環境とは言えず、俘虜による数回の脱走事件も起きたといいます。
大正5(1916)年には俘虜の生活も落ち着いたのか、重大な事件は発生せず、大正7(1918)年には俘虜の食事改善のため、畑を借りて野菜づくりを許可するなどの方策を講じていました。
また、収容所での厳しい生活の中、ドイツ人俘虜は次第に文化・芸術・スポーツなどの活動を収容所での生活の一部にしました。最初の活動は新聞発行であり、その後、石版印刷で展覧会案内、音楽会パンフレット、演劇パンフレット、クリスマスカードなどを印刷しました。石版印刷の案内にもある通り、絵画の展覧会のほか、彫刻の展示などもあったということです。
さらにドイツ人俘虜の楽しみの1つとして、音楽を聴いたり、奏でることがありました。久留米でのベートーベン作曲の交響曲第9番は、大正6年7月に徳島県板東収容所での演奏に1か月遅れての演奏でありましたが、一般市民向けでは日本で最初といわれています。
このように当時のドイツ人個々人の技能、技術力は大変高く、日本は多くの点をドイツから学びました。筑後川支流の架橋建設でのアドバイス、ゴム産業、食品加工業などの発展に大きな役割を果たしました。
久留米市民は俘虜の帰国に際し、大正8(1919)年12月にドイツ人演芸会を開催し、会場に入りきれないほどの盛会でドイツ人俘虜との送別を行いました。
大正9(1920)年1月に最後のドイツ人俘虜を本国に送り出し、同年3月に久留米俘虜収容所は閉鎖されました。
戦争が俘虜を生み出すことは悲劇ですが、それが市民との多くの交流を生み出し、お互いを理解しあうことを学んだ、久留米俘虜収容所の5年3か月の歴史は、勝者、敗者の域を越えたものがありました。
参考:「ドイツ人俘虜と久留米 久留米文化財収蔵館 編 久留米市教育委員会 発行」
「熊本・久留米の俘虜収容所の風景-あるドイツ人将校の写真帖でたどる」
大庭卓也 小澤太郎 編 花書院 発行
※写真はいずれも第一次世界大戦期に撮影されたもので、Wikimedia Commons 等で公開されているパブリックドメイン資料を使用しています。
久留米俘虜収容所に関するリンク(サムネイルは各Webサイトより)
1994年(平成6年)旧厚生省から国立久留米病院の移譲を受け、久留米大学医療センターとして開院、「心が通い信頼される医療」を理念に地域に根差した医療を提供。